「魔女と石 2」
ハードカバーがぱたんと音を立てます。魔女は管理番号に気を遣いながら、読んでいた本を片付けていました。ファンタジー、サイエンスフィクション、ミステリー……虚ろな空気が支配する図書館で、本棚を縫うように彼女は歩き回ります。それはどこか落ち着かず、行き当たりばったりのようでした。
もしも彼女が立派な魔女であったならば、石に触れるだけで莫大な知識と経験を引き出すことができたでしょう。しかしながら、彼女はまだまだ未熟でした。偶然に頼らず石を操ることを望むならば、それには多くの素養が必要となります。何も知らぬものが、突然全能を得ることなどできないのでした。
彼女はほとんどの時間を家にこもって暮らしていますが、時々こうして図書館にやってきます。気に入りの眼鏡とコートを羽織り、その下のぞんざいな格好を隠し、誰とも会話をせず、食事も疎らに、一日を過ごすのです。スマートフォンの電源は切ったままで、持ってこないことすらもあるほどでした。
こんなことをしてもお咎めなく許されているのは、彼女の担当がそれを掌握しているからでした。彼女はいつも、窓際の左端の読書スペース、ちょうど駐輪場が見えるところを定位置としています。ここにいれば、用件があって担当が駆け込んできたとしても、決まって窓越しに視線があうのでした。
ーー
今日何度目かに運んだ本をすべて返し終えたとき、彼女は眩暈と吐き気に眉をひそめました。肺が二重になったような不快感に抗うように、彼女は胸に忍ばせた石を握りしめます。巾着ごしでは触れることこそできませんが、より密着して距離が近づけたことで、多少は感覚できるようになっていました。
これは図書館の駐輪場でしょうか。時間はそう遠くない。彼女は幻覚を見て、そう直感しました。現在より遠くを見るほど負担や犠牲は大きくなるものですが、今回はそれほどの負担は感じないでいます。今日の、恐らくは数十分もしないくらいの先の話でしょう。
垣間見えたのは、図書館の駐輪場を担当が去ろうとしている光景でした。視点は恐らく、窓から彼女自身が見たものでしょう。自分の近い未来なら負担が少ないのも頷けるものです。担当の後ろから忍び寄る男に見覚えはありませんでした。男は手を伸ばし、担当の肩の少し前で緩慢に動きました。そして、
魔女の幻視はそこで終わりました。肺の不快感が遠のき、ようやく落ち着いて息ができるようになりました。しかし彼女は息を整えることもせず、駐輪場へ向けて駆け出しました。日頃の運動不足がたたり、足首が不安定に捻じれそうになります。胸元に潜ませた石は、こういう時には役に立ちません。
ーー
駐輪場には誰もいませんでした。夜闇の中で無数のスポークが不気味に林立している中で、ようやく彼女は息を整えました。担当がやってくるのは、十分か、二十分か、あるいはもう少しかかるかもしれません。ですが、少なくともここに彼女がいれば、未来は変わるでしょう。
そのとき彼女は首に悪寒を感じましたが、それは間に合いませんでした。先ほど予知で見たあの男が、彼女の真後ろに立っていたことに全く気付けなかったのです。男は魔女の口を手際よくふさいでしまったので、彼女は混乱の中でうめき声以外をあげることしかできませんでした。
男は荒々しくコートの隙間を探り、柔らかいところを探すように触れ回ります。魔女は懸命に抵抗しながらも失敗を悟りました。こいつはずっとここにいて、ただちょうどよいタイミングを待っていただけなんだ。それは誰でもよかった。石が偶然に、彼女の心臓の上に深く食い込みました。
ばちん。肥大化した前腕が、抱え込んでいた男の片腕をあっけなく引きはがしました。放り投げられた男は、一瞬ばかりあっけにとられて自分の居場所をつかめずにいましたが、スポークの向こうに禍々しいものの逆光を目にします。赤々とした剣が胸に突き立つ彼女の姿は、真っ白いコートを着た獣でした。
ーー
男は逃げ出しましたが、魔女がそれを追うことはありませんでした。男がこのあとどうなるかはわかりませんが、彼女は赤く明滅する胸元の楔を早く抜かなければいけないと思いました。懸命の力でそれを引き抜いたとき、魔女は元の姿に戻りました。彼女はへたりこんで座ったまま意識がありませんでした。
魔女ははじめてこの石の恐ろしさを知ったように思いました。祖母から受け継いだこの石に、計り知れない知識が秘められていることはわかっていました。しかし、人の持つべき知識だけでないように感じられたのです。彼女は思いました。「おばあちゃんが、もう少し、教えてくれてたらよかったのに」
彼女が予知した通り、担当はすぐ後にそこを通りかかったそうです。彼女はそこですぐに発見され、事なきを得ました。医者が言うには日頃の不摂生がたたっての貧血か何かであろうとのことで、しばらくは通い妻がその頻度をあげることになりました。魔女は渋い顔でそれを受け入れました。
しかし、彼女には気になっていることがあります。勝手知ったる台所で機嫌よく料理を作る担当の子が、あの現場を実は見ていたのではないか。少しでもその名残を感じ取っていたとしたら。魔女は巾着に入れたままの石を握りしめましたが、その心を読むことは、大変難しいことなのでした。
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