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Timeworn Blog / 絵空つぐみによる雑文芸ブログです。移転しました → https://timeworn.blog

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「夜時雨」

「夜時雨」(「艦隊これくしょん」二次創作)


 宵の気配が忍び寄る頃、その娘は海を見ていた。波止場の粗雑な石造りに脚を投げ出して、ずっと遠くの波を見通していた。訓練の砲声は止んで久しく、煮炊きの薫りもしない。沖から吹く風がすべてを洗い流してしまい、ただちゃぷちゃぷと淀んだ泡が上下するばかりだった。

「こんなとこに居た。夜戦には、まだ早いよ」その声に、娘は半分だけ振り向いた。まるで一足先に訪れたような、夕暮れの色の彼女。いつものように笑っていた。娘はそこまで夜戦が好きではないよと笑みを返し、彼女が隣に座り込むのをとやかく言うことはなかった。

 彼女はどうして、こうまで笑って振る舞えるのだろう。どうしてそんなに好きなのだろう。みな度々尋ねているけれど、はっきりした答えはない。娘はただ、夜はやっぱり怖いよとだけ、彼女への言葉に付け足した。隣にいたものが、消えてしまうような気がするからと。

「怖いときは、怖いよ」意外な言葉に娘はまばたきを返す。彼女は娘の髪をくしゃくしゃと撫で、のっそりと立ち上がる。恥ずかしそうにやっぱり笑うのを、娘は西陽の向こうから見つめていた。「夕食、遅れないようにね」強いな、娘は思った。

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 窓を開けると、涼やかな初夏の朝の気配が居室に差し込んだ。娘は昨日の動作をなぞり、そこでひとつ深く息を吸い込む。そうして、建具と家具とを確かめるように付いてもいない埃を払う。書斎机、鏡台、背の低い本棚、掛けはなしのコート、壁にもたれかかったままの軍靴。

 部屋の主は、今はいない。娘はそれを気にするふうもなく掃除を終えた。人手の足りないこの時勢において、こうした仕事もその娘には任されていたのだ。娘は常々思う、もし許されるならば、こうした生業に就くのもいいかな。やってみれば、意外とぴたりと嵌まる自分自身が少しおかしかった。

 ノックの音。娘は首をひねり、どうぞと応える。白と銀の見目美しい少女が、愛想のない顔を覗かせた。「伝言、伝えに来たよ」娘はその様子に苦笑いを浮かべながら、彼女を促す。「イチゴーマルマル、正門に。伝えたよ」娘は頷き、少し寂しそうに笑う。その歴戦の少女は、とにかく自制的だ。

 彼女は部屋から去る前に、隅の軍靴に目を止めたようだった。焼け落ちて、半分ほどの高さになった左足が、壁と一緒になって右足を支えている。娘は少女の視線を遮り、わかった、大丈夫だよ、と云う。少女の柔らかい髪の毛を帽越しに触れ、それから二人は揃って部屋をあとにした。

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「哨戒網に手違いがあって、……一艘だけね。被害は軽微だったけれど、あなたがあそこにいなければ、どうなっていたかしら」娘は冷めたコーヒーの水面を見つめたまま、その話をろくに聞いてはいなかった。おやつ時の喫茶は不思議と客も疎らで、カップとソーサーの触れる音が印象強く響く。

「あなたは非番だったのだから、懲罰はないわ。無断外出の件も口裏を合わせてもらったから、安心して」娘の様子に、その女性はわずかに唇を噛んだ。艶のある長い黒髪が髪飾りと一緒に揺れ、「聞いているかしら。大丈夫なの」と問う。娘はまばたきののち、ありがとうと応えた。

「姉様」喫茶の入口から、明瞭な声が通った。女性は慣れた様子でそちらを窺い、手招く。娘は話の終わりを察して、音も立てずに席を立った。女性は迷いながらそれを止めたりはせず、「そうだ、工廠に寄ってあげて。四式聴音機の件で用事があるそうよ」とだけ伝えた。

 娘が見えなくなってから、女性は深く溜息をついた。「私では、駄目なのかしら」娘の代わりに来た女は、そんなことはないと返す。「いいのよ。私もあなたも、あの子を本当に癒すことはできないのかもしれない。そう思ってしまうことが時々あるの」その言葉に女は、俯いてわずかに首を振るに留めた。

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 悪い夢から醒めて、娘は布団から身を起こした。汗に濡れた寝間着がひどく自身の匂いを感じさせ、気が滅入る。もう夜半過ぎであったが、同室の妹はまだ机に向かって読書を続けているようだった。頼りない読書灯を受けて、ちらちらとその金髪が明滅している。

 振舞いからはそうと見えなくとも、妹は多くの努力をしている。自慢の妹だ。でも、夜更かしは毒。娘は苦言を投げるつもりで妹の後ろに忍び寄ったものの、そうはせず、そっとその背を抱いた。「甘えん坊さん、ぽい」妹は驚くことなく、娘の指先にそっと手を添える。

 しばらくの間、二人はそうしていた。やがて妹は同じ言葉を繰り返し、そして続けた。「提督さん、言ってた。可愛い子、綺麗な子、いっぱいいるけど、自分が幸せにしたいと思ったのは一人しかいなかったって」娘がきゅうと抱きしめるのを、妹は少し苦しそうに笑った。

「だからね、幸せになってよ、時雨」返す言葉はなく、娘は強く嗚咽を漏らした。それからは、やはり、少し時間が掛かった。頬と瞼は腫れぼったくなっていたが、やがて娘の眼がその青を取り戻す。ただ一つ、その深奥の夜闇に桜色の火がある。娘は言った。「ありがとう」
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