「魔女と石 8 千草やよいのとある夜」
ある年の大晦日のことです。蕎麦の具を仕込む音を聞きながら、魔女は昔の話を思い返していました。あれから確かに自分は変わりました。もしかするとあのとき自分は死んでおり、今の自分は別人なのかもしれない、そう思うこともあります。ですが、すべては良いほうにいったと思うことにしています。
魔女はずっと柔らかくなりました。魔女らしい力は戻りきることがなさそうでしたが、その邪悪な優越感などなくとも大丈夫でした。担当の娘が夫を紹介した日は、彼女は真っ先に厳しい言葉を言い放ちました。そんなところはそのままでしたが、結婚式で真っ先に泣いたのは魔女のほうでした。
担当の娘は、もう担当ではなくなりましたが、やはり魔女にとって一番大切な読者であり続けていました。あれから少し厳しくなったのか、その精神性に魔女はやや責任を感じています。魔女とその父が和解するのにも大きな役割を果たし、今はまるで妹だったかのように親戚付き合いを続けています。
そして石はまだ魔女が持っています。あの頃ほどに多く深くを読み取ることはもうできないのですが、代わりに狙ったビジョンを見通す精度が身に付いていました。情景に飲まれることはもはやありません。垣間見た古の誰かを創作の助けとしながらも、語りたい言葉はいつも彼女自身のものでした。
ーー
頃合いを見計らい、魔女はそっと席を立ちました。魔女の実家に集った一同のもと、除夜の鐘が響いています。こうして年を越すのですが、こたつを囲む席はまだ一名ぶん空いていました。魔女はそれを呼び戻しに蔵へと向かうのです。サンダルをつっかけて表に出れば、鐘の音はより遠くなった気がしました。
夫婦のことは大好きだけれど、正月にまでこんなところにいなくたっていいのに。魔女は時々思います。正月だけではありません、何かイベントごとを見つけては、夫婦は魔女のもとを訪ねてきました。そのたび両親はまるで実の娘婿のように彼らを扱い、魔女はその義理の姉として、二人の子を世話しました。
蔵のなかからは、魔女が渡した電気カンテラの明かりが漏れていました。夫婦の子は、魔女にとてもよくなついていました。その子は驚くほどの利発さと繊細さを備え、こうして実家に来るたびに、魔女に話をせがみます。魔女が時間を取れないときは、こうして蔵の古い絵本や小説を読みふけっているのです。
「やよい、戻っといで」魔女は少女の名前を呼びました。返事はありませんでしたが、きっと没頭しているのでしょう。ふと、魔女は聞いたばかりのことを思い出しました。夫婦がこの実家を訪れる理由、それは、この子がとてもそれを望むからであること。魔女は手のひらの懐中電灯を切りました。
ーー
暗がりで、魔女の瞳孔が広く広くなりました。些細な逆光に見える少女の肩は、その細い髪の毛は、母とよく似ていました。けれどページをめくるその指先は、まさしく魔女の娘の所作でもありました。時たま、魔女は確信します。この子と血縁はないけれど、石の結びつけた何かが絡まっていることに。
忍ばせた石は、魔女の問いには答えません。魔女は少女の肩を後ろから抱き、とても愛おしいものであることを確認します。ファンタジー、サイエンスフィクション、それと。「ミステリー、結構好きなのよ」魔女はいつもそうするように、あるべき考えをあるべき場所に置くことを心掛けました。
「もっとも恵まれたものを疑え」魔女の言葉に少女は首をかしげます。魔女は何でもないと告げ、少女を呼び戻します。もう少し読んでいたいとせがみましたが、それを許すわけにはいきませんでした。魔女はいたずらっぽく少女を脅かしました。明日は今年ではないのですから、それくらいは。
少女の手を取り、魔女は不器用に笑いました。あの時、もしも誰かが願ったとすれば。誰が一番恵みを得たのか考えるとするならば。かなしませないでと魔女は願い返します。再び鐘の音が響くなか、魔女と少女は足早に蔵をあとにしました。そのとき魔女は、感謝という気持ちを改めて学んだ気がしました。
ーー
ゆえに愛おしく思うのです、けしてそのように見えなくとも。魔女はその瞳をまっすぐ見つめて、思いつきの物語を語りました。異国の風変わりな作法、生暖かいフルーツ、そして教訓の話を。「正しく年を越さないと、年と年の間に墜ちてしまうよ」少女は身を乗り出すように聞き入っていました。
いつか魔女は、この少女に石を託すでしょう。次なる魔女は目の前の少女である、それは定められたようにしっくりときました。凪いだままの赤い樋はその考えを肯定したようにも感じます。きっとおばあちゃんもそう感じていたのでしょう。願わくば、私は手渡ししてあげたいなと、魔女は思いました。
少女の瞳が赤く偏光を呈しました。魔女は石がイルカの鳴き声でそれに応じたのを感じ取っています。次なる幼い魔女は、まだまだずっとしばらくは未熟であるでしょう。けれど最も優れた魔女ともなるでしょう。ですが、そんなことはどうでも良いのです。ただ幸せになってくれればそれで良いのです。
「千の草が、いや生い茂るところ」それは少女の幸を祈ってつけられた名前です。かなしませないでと三人の女は願い、ここまでようやく至りました。魔女がそれに気づけば、互いに苦笑いして、似たものどうしと茶化しあうでしょう。そして再び歩むでしょう。彼女らには大いなる石の加護がついていました。
PR