「魔女と石 5」
魔女の得た力は、それを制御するまでに幾らかの事故を起こしました。とはいえこれまでの経験から、彼女自身の肉体に馴染んだものにこそ注意を向けるべきだとはわかっていました。最終的には愛用のノートパソコンを買い換え、一からゆっくり慣らしていくことで落ち着きを得ることができました。
魔女は用心深くカーテンを締め切り、それから電化製品を一つ一つ触れてみることもしました。インターネットに繋がるような機器は、思いのままにオンオフを切り替えることができました。しかし、あまりに単調な仕組みに同調してしまったためか、しばし全身の痛みにのたうち回ることになりました。
彼女は自分の身体が拡張されたと感じていました。家に担当が訪れれば、それを支配できていると錯覚さえしたものです。魔女は担当の見えないところで、その獣の右腕で軽く触れてみたりもしました。「どうしたのだろう、私は」確かに何かが悪い方向に行っている。そんな不安が常にありました。
白く銀交じりの獣の腕は、以前よりずっと簡単に出せるようになりました。こんな暴力を使うあてはありませんでしたが、それでも心強くはありました。猫か、豹か、はたまた虎か。軽く折れそうな自身の左肘を、獣の右腕がそっと暖めていました。胸に刺さったままの赤い短剣を彼女はうっそりと見つめます。
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魔女が使いこなすにつれ、この力は大変価値を持つようになってゆきました。石はより幻想的な景色を見せてくれるようになり、情感をそのままに文章へと変換することができるのです。彼女ははじめこそ、それが自分の書いたものか疑いましたが、諦念にまみれた回りくどい書き口は確かに彼女のものでした。
新境地を拓いた彼女の小説は、小さいながらも賞を受けました。魔女はその知らせを受けた晩、担当とささやかな祝杯をあげました。自分のことのように喜ぶ笑顔を見て、魔女は何もかもが報われた気持ちになりました。まさかこんなことにとほろ酔いで呟くこの顔をずっと見ていたいと思いました。
ですが、段々とそのような日は少なくなっていくのでした。異能ゆえの筆の速さはそれだけの仕事を生み、魔女が石を見る時間を長くしていきました。一方の担当もまた、部屋で安らぐような時間はとれなくなっていったのです。それでも、以前よりはずっといい。そう言い聞かせながら筆を執りました。
じきに、魔女の周りには多くの人が集まるようになりました。人との関わりは苦手のはずでしたが、石の存在が心強く、すぐに慣れることができました。いざとなれば握り潰せる、その邪な余裕が助けとなりました。魔女は若く有望な作家として持て囃され、その称賛はまんざらでもないものでした。
ーー
「担当を代わることになったんだ」そして、その日は訪れました。魔女は耳を疑い、何度かそれが冗談ではないか尋ねましたが、けれどそれは本当のことでした。きちんと食事を摂るよう、たまには会いに来ること、そんなことを伝えられている間でも、魔女は信じられないままでいました。
新しい担当はずっと素敵な人だと説明がありました。これからのステップアップはきっと為になる、魔女は上手くやっていけるから大丈夫、そう保証を受けました。けれどそんなことはどうでもよかったのです。何を聞いても、ただ置いていかれたときのような寂しさだけしか感じられませんでした。
魔女は声を荒げ、担当の肩に掴みかかりました。石の赤い樋がうずきましたが、獣の姿は現れませんでした。代わり、鎖骨の隙間から知らない男の笑顔と次の小説家の筆致を幻視たのです。魔女はよろよろと、迷って、お気に入りのクッションに沈みました。裏切られたわけじゃない。それはわかっていました。
そうして、魔女は独りになりました。いう通り、新しい担当は有能で仕事も早く、たいへんに助かるものでした。魔女の小説はより鋭く昏いものに変わり、それはそれで更なる人気を集めるようになっていきます。時々怯えたような目で魔女を見ることさえ除けば、仕事としては完璧な関係を築いたのです。
ーー
魔女は自分のことがわからなくなりました。石から引き出される情景はかつての比ではありません。そのたびに彼女は見知らぬ誰か、もしくは人ですらないものに浸食されていきました。掛けられていたはずの言葉も忘れ去り、食事も休憩も、だんだんと睡眠すらも犠牲にするようになっていきました。
人の語るスピードより早く、彼女の真新しいノートPCに文字が刻まれていきます。スマートフォンにもそうでした。しかし部屋の中は不自然なほどに静かで、それもそうでしょう、魔女の腕はだらりと下ろされたままで、キーボードを触れていないのですから。ただ物語と呼吸だけが規則正しく進んでいました。
「全部、あの石のせいだ」魔女はずっと脈打つ石を見ています。焦点はあっていませんでしたが、見えています。刻まれた赤の樋をイルカが跳びはね、首筋を刻むような鳴き声をあげています。「でも、もういい」魔女の姿は獣と雑ざり、クッションに座ったまま動かなくなりました。寝息は微かなものでした。
にわかに騒ぎとなったのは、一週間をゆうに空けてからのことでした。電話は通じるのですが、しかし何を話し、納得して切ったのか、わからなくなるのです。これはまさに魔女の御業でした。彼女の家を直接訪ねてみても、不自然な記憶の喪失が訪れるのです。……かつて担当であった彼女の他には。
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