「軽銀記憶港」
男は何も特別な人物ではない。男自身もそれを良く知っていたし、また特別にならないように注意深く振る舞っていたからだ。それゆえ社会は極普通の人物として男を迎え入れ、そして普通の人生を対価として与えていた。男は自分の意図を自覚していたが、その点を鑑みても男が格別に異常というわけではない。人は誰しも異常さの片鱗を持ち、無用心な喉元に輝かしくぶら提げているか、あるいは愛嬌のある尻尾として振り回しているか、さもなければ手袋の裏に隠しているか、しているものだ。何はともあれ、男は平凡に順応することを選択したのだから、男の人生はこれからもずっと平凡なものであるはずだった。勿論その人生に多少の緩急はあるだろうが、それはあくまで平凡という言葉の誤差の範囲内に収まるはずだったのだ。だがしかし、この世界はあまりに確率を信じない。人が忘れ去った低確率がふとした弾みに選択され、常識外れの怪奇、誰も信じないような奇跡がしばしばこの世界を掻き乱している。そして今まさに、平凡に生きているはずの男の下に、その奇跡が少しだけ分け与えられていた。
それが男の元を訪れたのは、冬の只中、寒い平凡な日曜日の朝だった。その日も男は定例通り平穏かつ怠惰な日曜を過ごすつもりだったから、昨夜の時点で目覚まし時計は止めていた。朝を知らせるけたたましい音はこの活躍によって未然に防がれ、本当ならば男は昼過ぎまでの怠惰な眠りに身を浸すことができるはずだった。だがその奇跡が男の家を訪れたために、男は七時前には目を覚ましていた。その訪問を無視するか、あるいは追い払えば安寧のうちに日曜日を過ごすことが出来たかもしれない。だが、一体誰がこの奇跡を無下にできるだろうか。何故なら男の元を訪れた奇跡とは、男と同じ名前を持っていて同じ過去を持ち、男を不機嫌そうに見る若造、即ち過去の自分だったからだ。
常識のため、あるいは休養のためなら、男は引越しをしておくべきだったのかもしれない。男が現在住んでいる部屋は、大学進学のために用意した一人住まいのままで、既に十年と少しの付き合いになる共用住宅の一室だった。駅を離れているし、入居当時でさえかなり古い建物で、今となってはかなり老朽化しているが、その分家賃も安く、薄給の男の家計に優しいので男はこの環境を気に入っていた。だが、それが問題だった。未来に放り出されたら、誰だってまずは住み慣れた自分の部屋を確かめようとするだろうことは想像に難くない。男においてもそれは例外ではなく、現に青年はまっすぐ自分自身の部屋に辿り着き、男と出会うこととなった。後悔先に立たずとは言うが、男がもしも引越しをしていたなら、青年は男に会うことがなかっただろう。男は日曜日を一日家で過ごせたかもしれないし、時間移動などという常識外れの出来事に出会わなくても済んだかもしれなかった。
ともあれ、青年はちょうど十年前の、大学時代の自分自身であるらしい。最初、青年は突然未来に飛ばされたことに戸惑っていたが、そのうち戻れるだろうという半ば無責任な男の推測にひとまず安心して、それから古い友人達の様子を男に尋ねた。大学生の自分らしく、青年が聞いた友人は大学時代のものばかりだった。大学時代を懐かしく思いながら近況を答え、その中の、ある女性の名前で男は言葉を濁した。青年はごまかしたつもりかもしれないが、未来の自分が誤魔化せるかと言えば否だろう。男は青年の態度と自身の記憶から、青年が他の友人よりも、彼女を一番気にしていることを察した。その彼女、楯川鈴は彼が今も憎からず思っている旧友であり、青年にとっては今現在憎からず思っている友人だったからだ。同一人物とはいえ年長としての矜持から、男は青年の希望を聞き入れた。そして今、男と青年はその古い友人のもとを訪ねるために、郊外へ向かう電車を待っている。
男と青年は、島式のホームで並んで立っていた。昨夜は気づかなかったが、朝にかけて雪が降っていたらしい。この駅は小高いところに建っているから、駐輪場、畑、そして寂れた商店が遠くまで連なる光景が見える。男にとっては十年以上、青年にとっても数年は見慣れた光景だったが、それでも今のように白く雪に染まっていることはそう多くないから、新鮮さを男は感じた。この地方に降る雪は少ないが、それでも夜から降り続けば街を白く染めるには事足りる。男は足元に焦げ茶色の鞄を置いて、それから朽ち葉色の外套に手を差し込み、小さな長方の缶を取り出した。男の取り出したものは飴の缶だ。男は悴んだ指先と固着した栓を一頻り闘わせて、軽い音と共に栓を抜いた。男は左手に一つ雪色の飴玉を転がす。それを数秒余り凝視した後、緩慢な動きで口に含んだ。男は薄荷があまり好きでないのだ。
「珍しいもん持ってますね」
「いるか」
「貰えるなら」
「よし」
男は薄荷の風味に顔を顰めながら缶を一振りした。乾いた笑いのような音があたりに響いている。残量が少ないのだろうか飴が転がる音は甲高く細々としていた。青年はほっそりとした白木のような手を差し出して飴を受け取る。男が想像したとおり、出てきたのは薄荷の味の白い飴だった。青年は無感動に飴を口に放り込み、舌の上でもてあそぶ。男は青年から早々と視線を外した。彼の着ている黒のダウンジャケットが雪の照り返しを受けてぎらぎらと光っていたから、矢鱈眩しかったのだ。
「相変わらず薄荷嫌いなんすね」
「子供っぽいか」
「少し」
正直に言うな、と男は不敵に笑った。それからわざと見せるように大仰に息を吐いた。それに対して青年は興味のなさを示すため、島式ホームの屋根を支える鉄柱に肩を寄せ、深々と溜息をついた。
「なあお前、雪は好きだったか」
「別に」
「そう言うだろうと思った」
青年は肩を竦めてから、ちらりと男の顔を見やって、そのしたり顔と目が合い、不機嫌そうに視線を逸らす。男が何もかもを解って言っていることは歴然だったし、事実その通りだ。青年は昔から雪が好きで、男もまた雪が好きだ。雪が好きなどと言うと豪雪地帯の人々に怒られるかもしれないが、男はそう思って少し楽しくなった。男にとって怒られることは恐怖であると同時に希望でもあるからだ。勿論怒られるのが好きと言うわけではないから、男は無闇に怒られることのないよう振る舞い続けている。だが怒られるという行為は最大限の関心を示す。愛の反対は憎しみや怒りではなく無関心だと言う通り、怒られるというのは相手の世界に自分がいるということの端的な証明になるから、男は単純にそれが好きなのだった。
「雪は良い。都会に降る雪は特に。何もかも静かになるからな。雪は音を吸って、息を吐く」
男の吹いた息が拡散し、それから鮮やかに色付いて消える。
「なあお前、憶えているか。小学生かそこらだな。今日みたいに朝まで雪が降っていた日」
「さあ」
男は悴んだ手を擦り合わせ、少しでも暖を取れないものかと考えた。男は目を伏せて外套に手を差し入れる。そうすれば多少は暖かくなるだろうという予想通り、多少は改善したように思う。
「これは、手袋をして来れば良かったな」
「しても寒いっすよ」
「そうだな」
男はふと次の電車の時刻が気になって、ぶらぶらと動き始めた。掲示板は少し離れていたが特別遠いというほどでもない。すぐに辿り着いて、腰を曲げて男は時刻表を眺めた。時刻表は情報量を重視しているから直感的に理解できない書き方をされていて、多少男を苦心させた。次の電車まではあと何分だろうか、知りたいのはそれだけなのだが、男はゆっくりと表の縦横を辿らなければならない。
「あの日は今日の俺みたいに手袋してくるのを忘れてた。それでも手を真っ赤にしてまで、雪を掴んで、投げて、転がり回っていた。雪だるま作った。随分と下手だったがなあ、あれは。雪を無理に握ったガチガチの氷で、しかも作り方なんてまるで知らないものだったから」
「そうっすね」
「あの日は酷かったな。結局その後帰ったら熱出して、一週間くらい寝込んで。あの時初めて点滴を打ったんだったな。不自然に元気になるんだよな、あれ。で怒られた」
白線の向こうから轟音が聞こえた。男はまだ結果の出ていない時刻表から視線を逸らし、無意味だったと肩を竦めて振り返った。どこか遠く向こうのほう警笛が鳴るのも聞こえた。じきに駅は列車で満たされるだろう。列車を超えて風が吹き、男の外套がはためいた。銀色に煌くいくつもの車両が男のそばを通り過ぎ、徐々に速度を砕いて溶かし、停止した。
「お前」
男は気づいた。青年の姿はどこにもない。
「帰ったのか」
車両の戸が開く前で、男は辺りを見回した。青年が寄りかかっていた柱にも、時刻表の前にも裏にも、また開いた戸の向こう側にも青年はいなかった。青年は男から飴玉一個だけを奪い去って、いずこかへ消えていた。元の時間に戻ったのかもしれないし、あるいはまた別な時間に飛ばされたのかもしれない。それは今となってはわからないし、知ったところで仕方のない話だが。男は数秒ほど考えて、一人列車に乗り込んだ。もともと青年は不安定な奇跡の上に成り立っていたのだ。現れるのが唐突ならば、消え去るのも唐突なのが筋といえば筋だろう。そんなところで筋を付けなくてもいいだろうと男は苦笑した。挨拶くらいしてから行ってくれても、罰は当たらないだろうに。列車は男を暖かい色彩の車内に迎え入れた後、いつもの通りの間を置いて、誰も聞かないベルを駅に鳴らし、不銹鋼の戸を閉めた。
車輪が重々しく動き出し、窓の外の景色が映画のように滑り始める。男は過ぎ去る駅に青年の姿を探したが、やはりその姿はどこにもなかった。飴玉一個はどこに行ったのだろうか。とはいえ、男は思った。消えた青年のことはもはやどうでも良い。自分自身が消えたわけではないのだし、そもそも青年の来訪は厄介な奇跡に過ぎない幻像だったのだ。もともと青年など来なかったほうが良かったと男は思いかけて、それから否定した。
「ゆっくり来い、若人。人生を楽しめ」
男が、口の中で飴玉を転がしながら何ともなしに言った台詞は、消えてしまった青年に向けられた独り言だった。台詞があの青年に届くことはない。だが、十年の歳月を越えて、男の耳には確かに届いた。男はその事実にはたと思い至り、一人苦笑した。よもや自分自身に説教する日が来ようとは。男は誰にも届かないと思っていたから言ったのだ。もしも誰かに届くならば、男は何も言わなかった。男は自分が誰かに説教できる人物でないということを良く知っていたからだ。
人類一般に説教する達観したような台詞は、思想家や詩人といった変人達に任せてしまえばいい。男は、身を包む現実にそこそこ満足し、将来に対する理想はそれほど高くなく、ただその代わりに日々を安寧に生きることを選んだ多くの平凡な人々の一片だった。だが、人は誰しも異常さの片鱗を持ち、無用心な喉元に輝かしくぶら提げているか、あるいは愛嬌のある尻尾として振り回しているか、さもなければ手袋の裏に隠しているかして持っているものだ。男が思想家や詩人の偏屈な、それでいて自由な生き様に憧れていないといえば嘘になる。彼らの遠慮のない高貴で重厚な銀の魂は、彼らの道を歩まねば手に入れられなかった貴重なものだ。だがそれでも、男はただ平凡さを選んだ。それを男は正しい選択肢だったと思っているし、そこに後悔はない。この世界を生きる上で平凡さは極めて強い力となるからだ。男は平凡さを鍛え平凡さに鍛えられて長い年月を過ごしてきた。だがそれでも、時々男の一部が変人達を羨むのだ。男が真似事のように、達観した台詞を独り言ちたのはそのためだった。荒らぶる魂を封じてしまった男の台詞は、銀を真似ても、銀よりも遥かに軽薄なものとして響いた。そうなることを知っているから、男は独り言としてそれを発したのだ。だが、十年を跨いで受け取ったその言葉を、男は銀よりしなやかで強い言葉だと思った。
男はふと考えた。自分の過去に触発されて、昔好きだった人に逢いに行くことを思い立つ。今でもきっと好きであろう彼女の元を訪ねる。これはまさに自己問答の形だ。単なる自己問答だったのだ。そう思って、男は青年の姿を忘れ去った。一番大切なことを優先しなければならない。これは平凡さの基本だ。男にとって、今一番大切なのは、この土産話をどうやって彼女に説明しようか、それを考えなければならないことだった。
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