「遠野」(「秒速5センチメートル」を受けて)
この東京の、並べての優しげな眼差しの人に捧ぐ。
季節が秋から冬に変わろうとする頃、十一月二十四日、土曜日。十一時少し前、朝から昼に変わろうとしている頃。悠一は新宿駅西改札口を通過した。彼がくたびれた鹿革の定期入れをかざすだけで改札は開く。いつもここでは小気味いい音が幾つも重なって響いている。
便利なものだと、悠一はしばしば思う。非接触型ICカード。何も昨日今日に始まったサービスではないが、それ以前はいちいち切符や磁気カードを買って使っていたのだ。彼は東京で生まれ育ったから、その変遷を嫌というほど見てきている。彼の定期入れは高校入学のときに父親に買って貰ったもので、その当時からこのカードは入っていたように記憶しているから、二つが大体同じくらい古いとすれば、このサービスはもう五年以上続いていることになる。当時高校生になりたての少年だった彼も、今や大学生だ。
今日は土曜日だから、大学は休みだった。だが、大学が休みでなかったとしても、彼はいつだって暇を持て余している類だ。もちろん、レポートや試験、それに多少のバイトが重なりさえしなければ。彼はサークルや部に落ち着くこともなく、かといって友達と遊び歩くこともしない人間だったから、普段から本を読み耽るなり、映画を見続けるなり、音楽に熱中するなり、あるいは一人でできる何もかもをすることができる。けれど、何をする気が起きるだろう。誰にも求められず、必要でもなく、ただ疲れるために何かをするのか。
それは、そう思ってしまうことそのものがとても悲しいことだ。だが、今日は違う。悠一は息を吐いた。珍しく彼はコートを羽織って家を出たし、それを後悔してもいない。今日は幾分か暖かいし、絶好の外出日和だ。息が白く濁って気を滅入らせることもない。
彼は定期入れをコートのポケットに突っ込み、宙に吊られた発着表示を眺めた。新宿駅の中央地下通路は、いつだって冗談みたいに混雑している。悠一がここを通る時間帯では、例外なくそうだ。一度だけ、早朝の新宿駅を写真で見たことがある。悠一は、その閑散とした景色に怖気さえ憶えた。そこは彼の知る新宿駅、彼にとっての大都心の象徴ではなく、誰からも忘れられたどこか遠い星の風景に見えた。悠一はその中央地下通路をまっすぐ通り抜け、一番奥、埼京線のホームへと階段を登った。
通路に漂っていた甘い匂いは、誰の香水だろうか。それともドーナツの匂いだろうか。複雑に混じり合ったそれは、彼の心を乱せるだけ乱しておいて、結局焼け付くような甘さだけを残して消えていった。
新宿さえあればほとんどの用事を済ますことのできる悠一にとって、埼京線はあまり馴染みがない。かと言って、知らないというわけでもない。大宮と大崎を南北に結び、埼玉と東京を繋いでいるから、埼京線。安直にも思えるが、わかりやすいネーミングというのはセンスがあるかもしれない。彼は、自分ならどう名づけるだろうかと考えながら、人々の後ろに並び、北向きの電車を待ち始めた。パリっとしたスーツ姿の男、愚痴と笑い声ばかり散らす女性の二人組、幼い子の手を引く夫婦、新聞を片手にした老人。前に並ぶ人々を手持ち無沙汰に観察しても、どこへ行くとも知れない。この中に、同じ目的地の人はいるのだろうか。少しくらいはいるかもしれない。けれど、この人だかりの中で、それを見出すのは不可能に近い。彼の目的地は栃木、岩舟。決して、誰しもが行く場所ではない。
聖地巡礼という言葉がある。若者の聖地と言えば渋谷、オタクの聖地と言えば秋葉原を示すことができるように、聖地はそこかしこに存在する。それはメッカのように文字通りの聖なる人の故郷であったり、学校や会社のような共通認識であったり、観光地や流行の先端であったりと様々だが、多くの人が大切に思う、あるいは彼らによって神格化した土地を聖地と言う。
そう言った意味合いにおいて、この岩舟への旅は、まさに聖地巡礼だと言えるのだろう。悠一の辿るもの、言わば彼の聖典は、新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」。作中で、中学生の遠野貴樹は栃木に住む篠原明里に会いに行く。そのとき貴樹が使った路線こそが、新宿岩舟間だ。
中学生が旅した話を、大学生がなぞる。悠一はその差異を、少し恥ずかしく思ってもいる。自分がもっと大人なら、自分は自分と割り切って行くことができるのかもしれない。悠一は多少働いてもいるし、それなりに親の信頼も得ているから、休日に旅行すると言えば幾らでも許してもらえるだろうし、旅賃を借りることだってできただろう。栃木どころか、津軽海峡を跨いで北の海を眺めることだって、種子島でロケットを見学することだって、しようと思えばできるはずなのだ。何も、中学生ができる旅をわざわざすることはない。
作中だったら、明里がいた。だから貴樹は行った。それは最も簡単な呼応であり、質問に対する正確な応答だった。彼らはそうやってお互いを確かめ合い、そして別れた。だが、悠一は貴樹ではない。辿り着いても、彼を待つ人はいない。誰の要請もないままここにいるし、強要されているわけでもない。けれど、彼の一人旅、気ままな旅かと聞かれれば、それもまた違うだろう。この道はきっと貴樹の道であって、悠一の道ではないのだ。彼を動かしているのは、憧れに似た、確かめたいという感情だけだ。岩舟駅にはきっと何もないだろう。なのに、何かがある予感をつい抱いていた。
岩舟で、俺は何らかの意味において救われるだろうか。きっと、そんなことはないだろう。悠一は思った。救いを求めているのか、俺は。何も罪など自覚してはいないと言うのに。人はいつだって、自分を救うために人生を行くのかもしれない。彼は自分の考えを反芻して、否定した。人というものがもう少しだけ、優しくあって欲しかった。誰かを救うために人生を行って欲しい。
滑り込むように入ってきた列車に悠一は乗り込み、彼を乗せて列車は北上を始める。埼京線は作中と同じように、さほど混んではいなかったが、座れるほどではなかった。新宿駅は多くの電車が発着するが、始発の路線は多くない。座れないのは、いつものことだ。
悠一は、映像を思い返すように少し悩んで、わざわざ車両の最後尾まで行って、そこに寄りかかった。十年以上前の夕方、あるいは夜、貴樹はそうしていた。もちろん物語の中の話だ。悠一は真似をしている自分が少し情けなくなったが、今更戻っても仕方ないと、そこに居ついた。意図したわけでもないが、同じように中吊りの広告を眺め、その扇情的な文句を頭の端に流して捨てて、それから窓の外を見始める。北へ向かう列車は、すぐに新宿の見慣れた景色を見失って、名も知らない雑居ビルやアスファルトの十字路をわき目に走っていた。
池袋、板橋、十条、赤羽。そこまで来て、悠一は気づいた。ここから先は、もしかすると、初めてなのかもしれない。彼は東京で生まれ、東京で育った。幸いにしてこれまで転校もなかったから、東京を離れたのは幾つかの旅行だけ。その中に、大宮を越えて旅した記憶はない。
悠一は鞄から本を出し、ページを適当にめくった。書店の紙カバーに覆ってわからないようにはしてあるが、ノベライズされた「秒速5センチメートル」だ。悠一はちょうど今に該当するページを引き当てて、それから辺りを見回した。埼京線の車内、段々と平らになっていく窓の外の景色。そこに、文中にあるような騒がしい女子高生はいない。土曜の昼前に制服姿の学生がいるはずもないか。彼はひっそりと笑った。
そう思ったのだが、彼は視界の端に紺色のブレザーを見つけた。男子高校生だろうか、それとも中学生だろうか。彼は時々不安げに周りを見回し、ドアの上の表示板を注視し、じっと耐えるようにつり革を握っていた。この時間に学生服を来て、北へ向かう電車に乗る。時期柄、受験生だろうか。それとも、恋人の元へ向かうのか。悠一は後者であることを願ったが、きっと前者なのだろうな、と思った。もしも後者なら、俺は嫉妬するだろうか。悠一は自問してみたが、答えることはできなかった。
埼京線は割と早く武蔵浦和の駅に着いて、悠一は快速電車に乗り換えた。武蔵浦和のホームは小さめの割にやたら混んでいて、快速電車もまた混みあっていた。乗換駅だからだろうと悠一は思ったし、ある程度の自信はあったが、確証は持てなかった。ここは、既に彼の知らない場所だったからだ。
* * *
「卑怯だ」
煌々と光る画面を見ながら、回想の中の悠一は言った。ちょうど一年前の、やっぱり秋が冬に変わる頃だったと思う。画面の中には季節外れの雪と桜がそれぞれの思惑で散っていて、淡々と、それでいて情熱的にその存在をアピールしているのは、今も変わっていない。
「やっぱり、卑怯だ」
身勝手な言い分だと、我ながら思う。けれど、素直な言い草だとは信じている。
全画面表示された「秒速5センチメートル」の公式ウェブサイト。悠一は「ほしのこえ」以来の新海監督ファンだったから、告知は聞き漏らさないようにしていたのだ。彼が卑怯だと言ったのは、主題歌が「One more time, One more chance」だったこと。彼は山崎まさよしのファンでもあった。そして何より最も好きな曲が、それだった。
見に行かないわけに、いかないじゃないか。
有名な曲だ。十年くらい前、彼がまだ小学生だった頃の曲だ。彼が中学生に上がった頃にはスタンダードなナンバーとなっていて、時折忘れた頃に不意に耳にする、そんな曲だった。
何か、映画の主題歌になっていたはずだ。そうだ。デパートの上の小さな映画館で、ガラガラに空いた中で見た、「月とキャベツ」だ。この曲には常にその映画と、映画館、そして街の風景が織り込まれていて、薄くかすんでしまった花火と火花の話と一緒に、彼の心に深く染み込んでいた。好きな曲である以上に、彼にとって印象深い一曲でもあった。
悠一はヘッドホンを掛けて、プレイヤーを立ち上げる。丁寧に階層化されたフォルダ群の林を抜けて、再生するデータは決まっている。アルバムの曲を幾つも飛ばし、ギターの音色が静かに始まる。言えなかった「好き」という言葉が、俺にはあっただろうか。悠一は目を瞑り天を見上げ、目蓋の裏に蛍光灯の黄色い光を浴びた。
見に行こう。見逃してしまわないように、できるだけ早く。悠一は、高鳴った胸を押し殺すように、熱い吐息を天へ吐いた。
* * *
大宮駅はそれなりに大きい駅だと聞いていた。だが、あくまでそれなりだ。新宿と比べれば小さいし、ずっと静かだ。そう言われるし、聞いている。
悠一は天井に吊られた電光掲示板の下で立ち止まった。駅を構成するものなんてどこの駅だって同じはずだ。改札と数種の表示板、それに階段。けれど、構造が違うだけで人は迷う。目当てのホームは騒がしいくらいの自己主張を繰り返しているが、全てがそれなら静かなのと大差ない。悠一は二、三分ほど迷った末に、ようやく乗り換えるホームが二つあることを理解した。新宿も複雑だが、大宮だって十分に複雑だと悠一は溜息をついた。
気づけば、十一時を過ぎている。多少お腹が空いていたから、悠一はホームに下りる前に売店に立ち寄った。物珍しいものはなかったから、飲みなれたコーヒーを買った。そういえば、貴樹もお決まりのコーヒーがあったっけ、と彼はぼんやり考えた。
宇都宮線はぴったりと定時に動いているようだったが、都心のほうでダイヤの乱れがあるらしく、電光掲示板には先ほどからそればかりが流れている。土曜日だというのに、忙しいことだ。悠一はコーヒーの開き容器をゴミ箱に押し込み、良し、と一息入れて宇都宮線のホームへ降りた。
この旅程を遠出と言うかは人に寄るだろうが、この道程の中では宇都宮線が最も長く遠い区間になる。悠一は電車に乗るなり迷わず椅子に座り、肩越しに窓の外を見た。一時間弱。本を読むには少し短く、何もしないで過ごすにはやや長い。
程なくして、車両は動き出した。悠一は鞄から再び「秒速5センチメートル」を取り出し、最初から改めて読み始める。何度か読んだ文なら、読み進めるスピードは速いし、そればかりに思考を集中させる必要もない。彼は度々窓の外を眺めながら、何周目かの貴樹の人生を進めていった。
すぐに新幹線に抜かれて、悠一は本をめくる手を止めた。彼らが速いのか、自分らが遅いのか。速度的な話をすれば、彼の体感ではどちらも速い。この辺りの普通列車が走る速度は知らないが、彼の知る線路でも、普通列車は大体時速六十キロ程度。駅間が短く速度が出せない状況でさえ、それくらいは出る。次の駅が駅舎から見える程近くとも、歩くより少しだけ速いという理由で電車は走るし、便利だからという理由で電車は止まる。
けれど、そんなに急いでどこへ行くのだろう。悠一は思った。速度には理由がある。人が電車に乗るのは、選択肢がないからだ。通学、通勤、観光、そしてそれ以外。何であれ、要請には応答しなければならない。応答するためには、回答時間に間に合う必要がある。歩く速度では足りない。だから電車に乗る。普通列車では足りない。だから新幹線に乗る。生き急ぐと言うのだろうか、これは。
そんなことを考えていても、時間が経つに連れ、彼の集中力は途切れていき、まるで呼応するように風景からは建物が減っていった。あれだけあったややこしい電線は鳴りを潜め、秋の透き通った青空の下、針葉樹のくすんだ緑色と、枯れ草と土の色。そういったものばかりが流れていくようになった。
ここには季節がある。悠一は過ぎ去っていった冬野菜の畑、背の低い緑の絨毯に思った。ここには、俺の知らない季節がある。俺の街には、きっと桜と金木犀しかない。春の訪れとともに、東京にはどうしようもないほどたくさんの花が咲き、散る。秋の別れとともに、どうしようもないほどの香りが一面に広がって、くらくらする。
他に、何かあったろうか。あったようにも思うけれど、これ、と悠一は挙げられなかった。酷く湿っぽい梅雨時の朝顔の色とか、いつだって遠くにあった夏の大きな雲とか、雪の降らない冬の、あまり理解してもらえない寒さとか。個人的だな。あまりに自分の世界が小さく思えて、笑ってしまいたくなった。けれど、笑わない。人聞きを気にしたのは当たり前だが、それだけじゃない。自分にも、誰にも伝わらない思いが少しくらいはあるらしい。それが面白かった。
小山にもうすぐ着くだろう。そう思って、悠一は残りの旅程を確かめるべく、路線図を眺めた。見慣れた路線図の一番上に「岩舟」とある。こんなに遠くに来たように思うのに、岩舟はいつもと同じ路線図に書いてあるのだ。それからたっぷり十分ほどの時間を掛けて、悠一は小山駅のホームに降り立った。ちょうど正午を回ったところだった。
小山駅は決して小規模な駅ではなく、どちらかと言えば大きいが、新宿や大宮と比べるのは酷というものだろう。普通の駅としては、幾つものプラットフォームを抱き、始発もあるこの駅は大きい。けれど、どうしても物寂しく感じてしまう。
広い駅舎を歩く人は多くない。待ち合わせのベンチには身を寄せ合うように何人かが座り込み、それぞれに話を弾ませている。土産物売りの女性が暇そうに商品を並べなおしている。その光景全てが何だかとても寂しくて、悠一は足早に両毛線のホームを目指した。
両毛線のホームは、小山駅の中でも特に寂しい場所にあるのかもしれない。長く幅の広い地下道を通り抜けて、急に広がったホームを見てそう思った。コンクリートの島型プラットフォームと天井に向けて四角い柱が等間隔に並んでいる風景は珍しいものではない。新宿だって、似たようなところはある。ただ、ここはとても薄暗く、静かだった。風はなく、暗がりの向こう、天井の途切れた先に青空が広がっていた。
寒い。悠一は吐息で指先を温め、それから手袋を忘れたことを酷く後悔した。決して防寒を欠かしたつもりではなかった。外を行くには十分なコートを着込み、それで出てきたはずだった。いつだって、寒いときに限って手袋はないものかもしれない、と悠一は思う。
悠一は、ホームを少しだけ行き、立ち食いそば屋のメニューに顔を寄せた。客はおらず、店員が暇そうに新聞を読んでいるのが見えた。
「やってますか」
「やってるよ」
驚くほどスムーズに会話は終わり、悠一は食券機に小銭を入れた。手が少し悴んでいたが、ポケットに入れた財布は思ったより温かく、小銭も冷たくはなかった。押す実感のない、ありふれた食券機のボタンを潰すように押し込み、今にもどこかへ飛んでいきそうな食券を手にとった。悠一がそれをカウンターの上に置くと、店員は緩慢な動きで新聞を畳んだ。
月見そば。しばらくして出てきたそれは、何の変哲もないそばだった。ホームの立ち食いそばは久しぶりだが、あまり期待して食べるものでもないことを悠一は知っている。月見そばはまずまずの味で、格別に美味しかったわけでも、食べられないほど不味いわけでもなかった。彼は手早くそばをすすり、つゆを半分と少し残した。
「御馳走様」
腹には溜まった。それでいい。悠一は、列車が来るまでのもう少しの時間をどうしようかと案じ始めた。決して熱々のそばではなかったが、それでも物を食べると身体は温かくなる。彼が自販機で缶コーヒーを買い、急ぐこともなく飲んでいると、割とすぐに、両毛線高崎行きの車両が滑り込んできた。彼が一歩踏み出すと、冷えた足先が音を立てて氷解するような感覚を憶えた。そばにせよ缶コーヒーにせよ、貴樹は選ばなかったことを、悠一は思い出していた。
悠一はボックス席には座らず、ドア際の長椅子に座った。理由は、それほどない。ボックス席は一人で座るには広すぎるし、手近な椅子だったから座ったというのもある。椅子が空いていれば、座ってしまうのは習性だろうか。あまりに悲しすぎる習性だな、と彼は思った。彼の乗る全ての列車は、座ることなどまずできはしない。始発駅で列車を待っていた人々が椅子を得て、残る椅子はない。降りる人が現れて開いても、埋まるのはすぐだ。
椅子取りゲームにしては、余ってしまう人の数が多すぎる。
両毛線の車両は、出発するまで多くの時間を掛けたし、とにかく揺れた。窓の向こうに見える地平を眺め、悠一は再び本を手に取った。風景から視線がそれると、列車のゆれがことさら気になるようになった。周りの人々は気にする様子もないから、悠一もそれに倣って平静を装った。普段の生活がいかに静かで、洗練されているのか。整備のされた車両、文句を言う数多の客、行き届いたサービス、そして人いきれ。方法は解るし、理由も解る。
相変わらず、窓の外の天気は良い。関東平野の秋は能天気なくらい真っ青で、雲なんてほとんどないことがほとんどだ。雨雲一つない日が続き、冬になるにつれこの平野は乾燥する。雪なんて降らないまま大地は凍っていき、気が付くと春が訪れる。きっと、ここら辺もそういう季節を歩むのだろう。
関東平野は、きっと凄く寒いところだ。彼はそう確信していた。氷点下何十度も行くところじゃない。雪だって数センチ積もったら電車が止まるくらい、降らない。それでも、乾燥しきった北からの風はあまりにも人に辛い。
寒さから耐えるように襟を立てて、東京に生まれたもの、訪れたもの、彼らは街をゆく。彼らは何を思っているのだろう。悠一は、普段何を思っているのか。それを自問した。
* * *
東京・渋谷の某所に、その小さな映画館はある。悠一はその黒い階段を登り、夕暮れの空に目を細めた。赤と白が緩やかに天を染め上げていて、何だか普段よりずっと眩しかったのだ。
「ずるい」
意図せず口をついて出た言葉か、吐いた息がそう聞こえてしまったのか、あるいは人込みの中で誰かが言ったのか。記憶の中の台詞は、そのどれとも判断できないままに、人込みの中に紛れた。
半年ほど前、寒さが一通り落ち着いていたか、あるいはまだ寒かったのか。今となっては覚えていないが、桜の季節が滑るように日本列島を駆け上がり、真新しい制服を着た学生、不慣れな人々がそこかしこに見られるようになった頃だ。映画「秒速5センチメートル」の封が切られ、数日が経っていたときのことだったと悠一は思う。
彼らの距離に関する幾つかの物語。そう前置きされた三つの短編は、予感のままに静かに始まり、ロケットの噴射と同じくして加速し、そして歌が始まり、急行待ちの踏切が開いて幕を下ろした。
「……卑怯だ」
今度ははっきりと呟いた悠一は、伏せた眼差しと裏腹に笑っていた。頭の後ろ、道路の向こう側を行く人、ビルの窓から見える影、そのどこからも聞こえない、「いつでも探している」のリフレイン。
やっぱり、卑怯だ。心動かないはずがないじゃないか。彼は一瞬だけ耳を触って、そこにはないヘッドホンを仮定しながら渋谷の街を歩いた。
* * *
岩舟駅のホームはだだっ広い畑の隅にあって、酷く見通しのいいところだった。これなら、一度雪が降れば一面真っ白にもなるだろう。映画で描かれた光景を思い浮かべながら、悠一は遅い秋の畑をじっと眺めていた。
思っていたより多くの人々が列車を降りて、陸橋を上がっていった。悠一もその一番後ろに続いて、無人の改札を通り抜けた。随分遠くまで来たような気がしていたけれど、非接触型ICカードの端末はきちんと用意されていた。ただし、簡易のものだ。端末の感知面は見覚えがあるものの、その全体の形状には見覚えがない。これを知っているというべきか、知らないと言うべきか。悠一は自問し、知らないと結論付けながら、駅舎の戸を開け、息を呑んだ。
確かに、これは、岩舟だ。
駅舎から見て、左右、そして正面に道は続いていた。左の角には自販機と公衆電話、消火栓を示す赤い標識。右の角には小さな私営の駐車場。正面、道のずっと先はT字路で閉じられ、二面のカーブミラーがこちらを見据えていた。昭和が終わるか終わらないか頃、そのしばらくのくすんだ時代を感じる。悠一にとっては見慣れてしまった、ごく普通の風景だ。
けれど、その背景。彼の知る風景を全て抱きかかえて、後ろの空に岩舟山は横たわっていた。その山はあまりに近くにあった。垂直に近い褐色の岩肌を露出し、残りのわずかな区域を可能な限り緑が染め上げている。確かに、これは岩の舟だ。
悠一は数十秒だが、岩舟山をじっと見つめていた。ここまで来て、やることなどない。カメラを持ってくればよかっただろうか。悠一は考えたが、持っていても仕方ないと思い直した。岩の舟が被写体として大きすぎるだけではない。写真は彼にとって記録に過ぎないのだ。写真は記憶そのものではなく、遠い日の光のあり方を、ただメモしただけのものに過ぎないと、彼は思っていた。彼にとってまだ取り返しの付かないものはさほど多くないから、撮っておく以外に選択肢はある。
悠一は、山に向けて一歩踏み出した。そういえば、凄く静かだ。車は時折通っていくものの、それ以外に音を鳴らすものは何一つない。悠一が道を行くと、集会所だろうか、座り込んだ老婆の背中が擦りガラスの下から見えた。また自転車預かり所の看板があり、物珍しさが目を引いた。店の中の気配は薄く、やはり静かだった。
さあ、どうしようか。駅まで一度戻ってきた悠一は思う。ここは自分のいるべき土地じゃない気がして、そしてそれは正しいのだ。そんな中で、自分は何を見て回るべきか。
駅から歩いて数十分南へ行くと、国道がある。駅から北に位置する岩舟山、そこに登るのを避けた悠一が、南に向かったのはほとんど必然だった。
岩舟町は閑静な住宅街以外の何物でもないように見えた。見たことのない景色を眺めているのに、どこか近所ではないだろうかと感じさせる風景だ。築十数年のアパートや一戸建て、あるいは空室を告げる立て看板。収穫を終えた畑と、切り倒された木々に募る小鳥の群れ。腐りかけの街路樹と、放置されたサビだらけの自転車。そして山の向こうまで続く高圧の電線。こういったものは、悠一の故郷にもある。彼の故郷はもう少し騒がしいかもしれないが、区別ができるかと問われれば、区別できないと答えるしかない。特徴のある建物など世の中にはほとんど存在しないし、また、思い入れのある土地などというのも、ごく僅かな街の局面をなぞってみて覚えているだけに過ぎないのだ。悠一は溜息を細く吹き出しながら、道を行った。
「ううむ」
思わず唸ってしまったのは、仕方がないことだろう。なんで、俺はこんなところまで来てファストフード店へ入ったのだろう。自分の行動ながら、納得しがたい。近くに食事を取れそうな店が見つからなかったことも一因ではある。けれど、ここは全国にチェーン店のあるハンバーガー店だ。値段が異常なほど手頃であることでも有名で、彼も大学のそばの店舗にお世話になることが多い。
普段から食べている味を、わざわざこんなところで食べなくても良いはずじゃないか。
悠一はチーズバーガーとジンジャーエールを頼み、それらは速やかに提供された。泣いているわけでもないのに、チーズバーガーは何だか塩辛くて、やたらに印象深かった。
悠一が窓に向かってハンバーガーを頬張る間、眼前の国道を幾つものトラックや自家用車が駆け抜けていく。駅のほうではあそこまで静かで車も人通りも少ないのに、国道になると人が多い。その状況は悠一が知っている風景よりわかりやすくて、何だか楽しかった。悠一の知る駅はどんなに小規模でも乗り降りする客は多いし、道は国道どころか私道さえも場所次第で混雑しているのだ。
店内には悠一のほかに、幼い娘を連れた母親がいた。他に客はおらず、カウンター内の店員はこっそり私語を楽しんでいる。
「そうか」
悠一は誰にも聞こえぬよう呟いた。悠一の前、ガラス張りの向こうから小学生くらいの男の子が三人パラパラと現れ、店内に入り、何かを頼んで受け取り、悠一の後ろの席に付いた。
俺は、東京人なんだ。
悠一は確信を持って、ジンジャーエールのストローを噛んだ。
俺は東京人だから、そして、その世界と生活が血にしみこんでいるから、こんなところに来てまでこうなんだ。
彼は席を立ち、どうでもよさそうな風を装ってゴミをゴミ箱に叩き込み、店を出た。
国道から駅へと戻る道すがら、彼は住宅街の細かい道を縫って歩いた。北には必ず岩舟の山があって、方向を見失うことはなかった。小学校の脇を通り、工場の古い鉄タンクを見ながら先を進み、刈り取られた後の畑を眺めては時間を潰し、トタンの塀の向こうに柿の木を見つけ、岩舟町の名の入った小さな消火栓をじいっと観察し、畑にぽつんとある石鳥居を眺めた。彼にとって意外なほど時間は早く過ぎて、彼が駅に戻る頃には、夕日が赤く辺りを染め上げていた。
小山までの電車には、もう少し時間が掛かりそうだった。だが、悠一は待つことにした。彼にとって待つことは苦ではない。もっとも、東京に住んでいて待つことなどほとんどないと言われてしまったら、それまでなのだろうが。悠一は自販機でコーヒーを一つ買い、待合室のベンチに座り込んで息をついた。
自分はどうしてここにいるのだろう。何を今更、そんなことを思うんだろう。
悠一はコーヒーを勢いよく喉に流し込んだ。いつもの苦い味しかしなかった。
* * *
悠一は、自分からは何もしない人間に育っていることを自覚していた。常に受身で、冷淡で、いつも端にいて、聞けば意見を返してくれる。基本的には善人だが、求められれば可能な範囲で悪役をも演じる。そういう男だということを彼自身は知っていたし、彼の周りの皆も知っていた。彼は思う。きっと自分は背景なんだろう。親友と言える程に付き合いのある友はおらず、恋人がいたこともない。誰かに愛の告白などしたこともないし、悩みを打ち明けたこともない。ドラマチックな場面や逆境に立たされたこともなく、劇的な夢に身を焦がしたこともなかった。
まあ、いい。寂しいとか、そういうことさえ思わないんだ。模様のように生き、馬車馬のようにしていれば、支障は何一つない。そういうところなんだ、ここは。
また逢えると思っていたのだ。その思考は、きっといつか叶う日も訪れるかもしれない。決して間違ってはいないのかもしれない。いつだって逢うことはでき得るのだ。別に遠くに行くわけじゃない。彼は同じ街に住み続け、彼以外の誰かもまた同じ街に住み続ける。彼は住所を知っていたし、電話番号を知っていたし、連絡をつけるための幾つもの方法を知っていた。
けれど、彼と彼以外の誰かは、それ以来逢うことはなかった。あれほどに親しげに話し、冗談を言い合い、喧嘩もし、それ以上の酷いことも幾つかあった。そんな彼らは、もう逢うことはなかったのだ。彼らの意思によって、あるいは彼らの無意識によって。重ねて言おう。彼らは逢うことができるのだ。今にでも、そのときにでも。
「また、な」
そう言って笑った彼と、彼以外の誰かは、それ以来逢うことはなかった。
* * *
しばらくして、待合室には、高校生だろうか、女の子が二人訪れた。彼女達は一年くらい前の流行歌を大音声で流し始め、それに負けないくらいの大きな声で話し始めた。悠一はコートの中に首を収め、ポケットに手を突っ込み、ベンチに深く腰掛けながらぼんやりとそれに聞き耳を立てていた。
彼女達は解りやすいくらいに活発で騒々しく、どこか物語の中のステロタイプな人間のようだった。享楽的で、物事の深いところなど考えもせず、そして人生を何より楽しんでいる。未来に自分がどうなるかなんて知ったことではなく、今さえ良ければそれでいい、という刹那主義の産物。それが彼女達なのだろうか。
そこまで考えて、悠一は心中で頭を振った。違う。彼女達がいかに浅はかに見えようと、果たして今ここで見える彼女達は、全てを現しているわけではない。全ては闇の中だ。確かめる術も、その意味も何処にもありはしない。
それに、彼女達を見下すような視点の自分自身こそがステロタイプでないと誰が言えよう。彼女達は、悠一をどういう人物だと認識しているのだろうか。不機嫌そうに座り込んだ、見慣れない不審な男か。それとも、異国の地から訪れた謎の男か。あるいは、単なる背景に過ぎないのかもしれない。
物語は、彼女達の中にもある。そして、そこに悠一はいない。
ふと、俺が貴樹と明里を愛おしく思っていることに気が付いた。彼らが好きだから、自分はこの騒がしい人々を皮肉げに眺めてしまうのだろうか。彼と彼女の物語は、悠一には何一つ関係のないことなのに。
けれど、どうして愛おしく思うのだろう。
彼女達は同級生の男の子を見つけたらしく、缶ジュースをたかりに外へ出て行った。それからしてじきに入ってきた老年の男は、つまらなそうな顔をして俺の隣に座り、コツコツとつま先で床をたたき、ぼんやりとしていた。彼はくたびれたコートをきつく抱きしめるように縮こまって座り、床を叩くリズムだけを楽しんでいるように思えた。
俺は時計に目をやる。外は既に夜となり、もうどこにも岩の舟は見えなかった。
岩舟の駅は、とても風通しのいいところだ。悠一は首をすぼめながら、看板を眺める。岩舟と単に書かれた、代わり映えのしない統一デザインの駅名看板だ。
この看板の近くで、確か明里は電車を待っていたような気がする。現実にどうだったか、確かめようとは思わなかった。悠一は看板を背に感じながら、本を取り出し、天を仰いだ。夜というものは暗いものだ。すっかり忘れていたような感覚がするが、当たり前のことなのだ。悠一は本を開かず、腕時計を見た。
腕時計には蓄光塗料が塗られているから、少しの間だけなら闇の中でだって見える。薄緑の光は周りを照らすほどの力もなく、蛍の光ほどにも神々しくもない。どこか星の光に似ている。悠一は思った。一分一秒を明確に刻み、同じところを狂ったように回り続け、そのありようが人に時間を告げる。星と時計に共通項は多い。
悠一は空を見上げた。星が瞬いている。星はほとんどずっと同じ光を発し続けているから、瞬いているように見えるのはそれ以外の様々な要因によるものだ。空気、汚れ、人の目はそんな色々な誤差を通して世界を見つめている。星そのものは瞬いていない。星を見る人の目が瞬いているとでも言えば、詩的だろうか。悠一は考えて、目を瞑って、少し置いてゆっくりと開いた。
遠く、ずっと遠くから車両が近づく音だけが聞こえていた。その一方、自然に生まれた涙の幕が、もっと遠く、オリオンの光を美しく瞬かせていた。
東京の汚れた空なら。悠一は思った。
岩舟駅に到着した列車は、さほど長い間停車してはいなかった。岩舟に着いたときと同様、さしたる感慨もなく、列車は行く。
悠一はゆっくりと座席を取り、ぼんやりと外の景色を眺めていた。外には何も理解できるものはなく、光を吸う深淵と、そこここに散る光点に重なって、不安げな悠一の横顔だけが映っていた。
温かく迎えてくれることも、冷たくあしらわれることもない。これまで関わったこともなく、これから関わることもきっとないだろう。悠一にとって、岩舟はそんなところだった。
車内はそれほど混んでおらず、また、人々の気配も多くはなかった。悠一は本を手に取り、ゆっくりと読み始める。
悠一は、貴樹とは違う。彼は現実に、もう一人は物語の中にいる。彼の近くには桜の香りのする少女はおらず、閉まった自動ドアに向かって吸い込んだ息も、朝の光の中で遠ざかっていく駅の景色も、ない。
希望と、言えばいいだろうか。
悠一は大きくページを跨いだ。貴樹は瞬間的に何年もの時間を飛び越え、悠一より少し年を重ねた姿でゆっくりと動き始める。彼は悠一の未来ではない。彼が悠一だったことも、悠一が彼であるだろうこともない。けれど、似ているところ、似ていないところ、その輪郭だけが悠一には感じられた。
物語に、あまり強く思い入れすぎると。悠一は思った。夢見がちと言われるだろうか。
触れ合うこともなく、お互いに存在を確かめ合うこともなく、完全に同じ人物でもなく、そして、こっそりと自分は貴方の物語を知っている。それは、儚い希望であり、拙い道しるべとなっていく。
──貴樹の中に、明里はいるだろう。そして宇宙を眺め、古代に思いを馳せ、下らない幾つもの事実を知り、秒速5センチメートルの鮮烈な光の中で貴樹に笑いかける。きっと。
悠一はふと我に返って、かすかな眠気を払うために辺りを見回した。列車はもうかなりの道程を過ぎて、思川。いい地名だ。いい地名だけれど、悠一には関係のない地だ。これまでも、きっとこれからも。
俺は新宿に帰ろう。苛立つくらいの喧騒も、目の潰れそうなネオンサインも。
夜の質が段々と明るいものへ変化していくのを見ながら、もう少し素直に考えてみよう。悠一はそう心を決めた。
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